群馬B級スポット

真珠湾で散った前橋市の軍神岩佐中佐のお墓参り

前橋市の岩佐直治(いわさなおじ)という方をご存知でしょうか。 聞いても知らない人が多いと思うこの方の命日が12月8日です。

 

岩佐直治が亡くなられた正確の日付は、昭和16年12月8日。
そう、昭和16年12月8日は大日本帝国海軍がハワイオアフ島にあるパールハーバー(真珠湾)を航空機及び特殊潜航艇で奇襲攻撃した日。太平洋戦争(大東亜戦争)開戦の日なんです。

 

岩佐直治、いや岩佐中佐のお墓は前橋の松竹院にあります。知人に聞いていて、一度は松竹院にある岩佐中佐のお墓参りに行こうと思っていましたが、今回ゆっくりお参りがしたかったので、敢えて12月8日の命日を外して12月3日にお線香を持って訪れた次第です。

 

名称は松竹院、宗派は曹洞宗の寺院

 

12月8日の真珠湾攻撃と聞くと、一般的には航空機による奇襲攻撃や作戦を立案した山本五十六連合艦隊司令長官(新潟県長岡市出身)を連想する方が多いと思います。
しかし、今ではその陰に隠れるように当時軍神として祀られた群馬県出身の軍人がいました。その方が前橋市出身の岩佐中佐です(大尉から二階級特進により海軍中佐)。岩佐中佐も日本の未来のために真珠湾奇襲攻撃の発案者の一人だったのです。

 

岩佐中佐は特殊潜航艇の隊長として、10人の部下を引き連れ26歳の若さながら郷里のため、未来の日本のため、家族や国民のために戦死しました。

 

戦後の平和な現代において、私にもなかなか当時の理解は難しいのですが、いろいろな意味でも一度はここを訪れたいと思っていた場所なんです。
師走の12月に入り、やっとその念願がかないました。

 

松竹院の正面にある本堂

 

松竹院の門から入って、すぐ左側にご本尊がおりました。

 

でも松竹院の御本尊の表情が、関東一高から東北楽天ゴールデンイーグルスに1位指名され入団したオコエ瑠偉選手に似ていると思った。

 

どうでしょうか?

 

松竹院の御本尊

 

松竹院の正面右側にあるボケ封じ観音像、ボケない健康長寿にご利益があるらしい。小生、昔から落ち着きがなくボケ気味なので、観音様にお線香をあげてボケが改善できるように合掌しておいた。観音様、何卒よろしくお願いいたします。さらに合掌。

 

ボケ封じ観音像(前橋市松竹院)

 

前橋市の松竹院にある岩佐中佐のお墓です

 

ここで岩佐中佐のお墓を紹介する前に、よくわからない方のために真珠湾攻撃について少し触れようと思う。

 

真珠湾攻撃による作戦は、航空機と特殊潜航艇による奇襲攻撃でした。
12月8日(ハワイ時間は7日)の真珠湾攻撃では、岩佐隊長が率いた特殊潜航艇5隻(10名)の全艇が真珠湾に潜入することに成功しています。

 

湾内ではアメリカ軍の戦艦ウェストバージニアと戦艦オクラホマに魚雷攻撃を行い、オクラホマを転覆させる戦果を挙げました。
この特別攻撃で岩佐隊長を含む9名が戦死し、1名が米軍の捕虜になっています。戦死した9名が二階級特進して、当時「九軍神」として顕彰されてます。

 

どうしても真珠湾攻撃では、圧倒する航空機による戦闘作戦が有名であり、群馬県出身の岩佐隊長が率いた特殊潜航艇は陰に隠れてしまっているのが同じ県人として悲しいところ・・・。

 

それだけ航空機攻撃が数の上でも大戦果を挙げたので仕方ないとは思うけど・・・。

 

空母は当時の日本海軍の正規空母である「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」が参加。航空機攻撃の第1次攻撃隊の第1波では、当時世界最強といわれたゼロ戦を含む航空機が日本空母から183機(ゼロ戦43機、97式艦上攻撃機89機、99式艦上爆撃機51機)が発進、その後、第2波では171機が発進して、アメリカ太平洋艦隊に日本の航空機編隊が大打撃を与えている。

 

当時、仮想敵国だったアメリカに対して、歌でもあるような月月火水木金金(げつげつかすいもくきんきん)の猛訓練をしていた日本のパイロットは、世界でも超優秀な飛行技術を持っていたパイロットに違いないと思う。

 

その腕と技術を持った優秀なパイロット達が、日本の性能豊かな300機以上の戦闘機に乗り込み、空母から飛び立って真珠湾に向かったのだから、大戦果は必然だろうと個人的に思う。

 

以上がおおまかな真珠湾攻撃と岩佐中佐のまとめ概要。

 

真珠湾で散った岩佐中佐のお骨や遺品はここにはないと思います。ですが後日調べたら、戦後米軍から岩佐中佐の大尉だった階級章が家族に返還されているようでした。

 

下記が岩佐中佐のお墓。松竹院を入って右側の奥にありました。

 

岩佐中佐のお墓(前橋市松竹院)

 

12月に入って誰かがお参りに来ているのだろう!命日前にもかかわらず岩佐中佐の墓前にはお供え物がありました。

 

お墓入口にあった中川かるたの書には「大戦の思いでつまる松竹院」とあった。ちなみに中川かるたは地域かるたのようです。

 

中川かるたの会(岩佐中佐のお墓)

 

当時岩佐中佐達の功績が称えられ、「特別攻撃隊」という楽曲が作曲されている。(選詩が読売新聞社で、作曲が東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)。 また、首相であった東條英機氏が岩佐中佐の実家を訪れています。

 

ここでの特攻隊は、終戦間際に命を無駄死にしたあの悲惨な航空機で突っ込む神風特攻隊とは意味合いが全然違うと思う。

 

特別攻撃隊楽曲の碑(岩佐中佐のお墓)

 

岩佐中佐のゆかりの石碑(岩佐中佐のお墓)

 

軍神岩佐中佐、遺書の碑
岩佐中佐の父上、母上様にあてた句が碑として建っている。

 

岩佐中佐の遺書の碑

 

剣道の名手だった岩佐中佐は前橋高校(旧前橋中学)出身。当時大本営のプロパガンダにも使われたと思うけど、岩佐中佐自身の「軍神岩佐中佐」という楽曲も作られていました。お墓にあった軍神岩佐中佐の楽曲の碑。

 

軍神岩佐中佐の碑(「軍神岩佐中佐」という楽曲)

 

答辞の碑の書き方がなんとも昭和初期を感じた。「一人前ノ人間ニナル覚悟デゴザイマス サラバ 先生方 多クノオ友達 母校ヨ」。
昭和二年三月三十日
第五回卒業生総代 岩佐直治
遺書の碑や答辞の碑を読んだときに、なんとも奥からジーンと感じるものが沸き起こった。私も中佐と同じ日本人だ!

 

ここに来て今回墓前で手を合わせてみて、命の大切さや尊さ、平和の有難さなどを再確認することができたような気がした。ここに来てよかった。

 

お墓にあった岩佐中佐の答辞碑

 

祖国の未来のために真珠湾で散った群馬出身の岩佐中佐の年齢は26歳。婚約者がいた岩佐中佐ですが、真珠湾攻撃への参加が決まると自ら破談にしていました。中佐本人や婚約者の思いを考えると言葉が見つからない。

 

本気で生きていたであろう岩佐中佐、自分は今を本気で生きているのか少し疑問に感じた。

 

確かにTDLやUSJは楽しいけれど、時にはこのような場所に足を運んでいろいろ考える時間も大切だと思った。

 

岩佐中佐の位牌とお墓、周辺の景色です

 

2016年12月9日に松竹院にお墓参りにて

 

お線香をもって2016年12月9日に松竹院にお墓参りに行って来ました。今年は安倍首相が12月下旬にハワイへ真珠湾攻撃の犠牲者慰霊に出向くようですね。75年前の太平洋戦争の発端となった真珠湾へアメリカのオバマ大統領とともに犠牲者の慰霊をします。

 

2016年12月9日に松竹院

 

現職の総理大臣が真珠湾を訪れて犠牲者に対して慰霊をするのは初めてみたい。真珠湾に今も沈んでいるアメリカ軍の戦艦アリゾナはメモリアルが建ち当時のまま。乗組員も戦艦の中で今も眠っています。人間に欲望がある以上、悲しいかな戦争はこの先もなくならないのだと個人的に思う。

 

軍神岩佐中佐の石碑

 

場所:岩佐中佐のお墓 松竹院(曹洞宗)
住所:群馬県前橋市本町3丁目17−12

 

前橋市の松竹院(曹洞宗)の場所と地図